歴史上最も有名な二人の恋1

人気のない場所で複数人の男に囲まれることはこれまでにも多々あった。
いじめを止めれば逆に目をつけられ、喧嘩の仲裁に入ればお前はどっちの味方だよと飛び火を食らう。
ただ”名前”が気に食わないという理由で理不尽に喧嘩を売られることなんて日常茶飯事で、その度に相手を言い負かし、暴力という形で返り討ちにも遭ってきた。
もちろんそんな仕打ちを受けるのは怖い。
けれど、慣れというものは恐ろしいもので、十代も後半になれば幼少期の頃ほどその状況に恐れるわけでもなく、ああまたか。厄介だなぁ。と小さくため息が漏れる程度になっていた。
その態度が相手の神経を逆撫でしていることは理解していたが、自然と出てしまうのでどうしようもない。
今がちょうどそのパターンだった。

「ここなら大声出しても構わねえよなぁ?」

年齢はアルミンと大差ない。
おそらく高校または大学生くらいであろうカラフルな髪色をした柄の悪い不良らが愉しげにアルミンを見下ろしている。

「好きにすればいいよ。騒動を起こして捕まりたいならね」

路地裏とはいえ目の前は大通りだ。
騒げば通行人の誰かが通報でもするだろう。
そう挑発し、不良らを真っ直ぐ見据えると、すかさず胸倉を掴まれ、右頬に拳が炸裂した。
建物の石壁に背中を叩きつけられ、足元がぐらりとよろめく。その衝撃で肩にかけていたショルダーバッグが地面に落ちた。
接客の仕事に支障をきたすから顔はやめてほしかったな、本当についてない。
心の中で独りごちると、男は再び手を振り上げた。強烈な一発が来る。と、アルミンは反射的に目を瞑る。
それとほぼ同時に強烈な殴打音が耳に響いた。

「⋯⋯」

殴られた。
⋯⋯はずなのだが、おかしい。衝撃も痛みも感じない。代わりに自分のものとは違う呻き声が聞こえ、アルミンは恐る恐る目を開けた。
何が起こったんだ?
今しがたアルミンを殴った男が地面に突っ伏し身悶えている。主犯が倒れたことに呆気に取られ、立ち尽くす二人の取り巻き。その二人の目線を辿ると、そこには見知らぬ男が立っていた。
年齢はアルミンとそう変わらないが、一八〇センチ以上はありそうな高身長で、長めの黒髪を後ろに一括りにしている。無様に倒れた男を見下ろすその目付きは鋭利なナイフのように鋭い。ふと悪人面という言葉が頭に浮かんだ。
そんな印象を抱いたのはアルミンだけではないようだった。
こいつはやばい。そう感じたのか言葉を失った取り巻きと、何とか立ち上がった主犯の男が足をもつれさせながら逃げていく。
その後姿を睨み付けていた鋭い目が今度はアルミンの方へと向けられた。

「えっ、と⋯⋯ありがとう」
「いや⋯⋯それより何でこんなことになったんだ?」
「彼らが図書館で騒いでて、迷惑だったから注意したんだ。そしたらこうなった。⋯⋯予想はしてたけどね」
「⋯⋯」

いてて、と殴られた頬を摩るアルミンを男は何か言いたげな表情で見つめている。
鋭かった目は少しだけ和らいでいた。

「お前、名前は?」
「アルミン・アルレルト。君は?」
「⋯⋯エレン」

「⋯⋯エレン」

アルミンがその名を口にすると、エレンのエメラルドグリーンの瞳が僅かに見開いた。

「お前、確か駅前のカフェでバイトしてるよな」
「え?あぁ、うん。知ってたんだ。知人が経営してるカフェでさ。よかったら今度おいでよ。助けてくれたお礼、するからさ」
「⋯⋯いいよ、別に。偶然通りかかっただけだしな」
「それでも助けてくれただろ?見て見ぬふりをする人だって少なくないのに」
「そうか?普通見るに見兼ねるだろ?」
「⋯⋯普通、か。君はとても勇敢なんだね」

実際、人助けをすることは当然だと頭では理解していても行動に移せるかは別問題だ。
大抵は返り討ちにされるかもしれない。後々目をつけられたらどうしよう。そう怖がったり不安になったりするはずだ。
けれど目の前の男はそんなことは考えもせずに誰かが困っていれば例え自分より強い相手であっても立ち向かっていくのだろう。

「⋯⋯勇敢なのは、お前だろ」
「え?」

エレンがボソリと呟いた。
その言葉が聞き取れなくて、反射的に聞き返すと、エレンは気まずそうに頭を掻き、何でもねぇよとそっぽを向く。

「それよりいいのか?こんなとこで油売ってて。これからバイトなんだろ?」
「そうだ!もうこんな時間じゃないか!」

腕時計で時間を確認し、慌てて地面に放りっぱなしだったショルダーバッグを拾い上げる。

「ありがとう!また改めてお礼するからさ!」

そう言いながら手を振り走り出すアルミンに、エレンはやれやれといった呆れ顔でため息をついた。
角を曲がりエレンが見えなくなるまでにアルミンは数度振り返り、エレンに手を振った。
最初に振り返ったときはもういないだろうなと思ったが、エレンもまたアルミンが見えなくなるまでその場に留まり、アルミンが手を振るたびに振り返していたのだ。意外と律儀な男だと思った。

これがエレンとの出会いだ。

それからほぼ毎日のようにカフェの前を通るエレンを見かけるようになったが、カフェ店内に入るわけでも無く、ただアルミンの方をちらりと一瞥し、店を通り過ぎる。
やあ、と手を挙げると向こうも気怠げに手を挙げ挨拶返しをするが、それだけだ。
助けてくれたお礼がしたいんだけどなあ。
カフェとかそういう場が苦手なのだろうか。それなら他の礼を考えなくてはならない。
エレンが喜ぶことはなんだろう。欲しいものはなんだろう。

⋯⋯そういえばここ二、三日見かけてないな。
ただ単にカフェの前を通っていないだけなのか。

「⋯⋯」

厚い雲に覆われ今にも雨が降り出しそうな空を見上げると、ほんの少し胸騒ぎがした。
このままもう会えない、なんてことはないよな⋯⋯そんなことを考えながら帰路につくと、路地裏らへんから複数人の怒鳴り声が聞こえてきた。
数週間前にアルミン自身が絡まれたあの路地裏だ。
喧嘩かそれとも集団暴行か。
どちらにせよ放っておくわけにもいかない。
居ても立っても居られず駆けつけると、そこには見覚えのあるカラフルな髪色をした不良どもがまた別のターゲットに暴行を加えていた。

「ねぇ!通報したけどそれまだ続けるの?」

君たち今度こそ捕まるよ、と付け加えると、不良らはターゲットへの暴行を止め、一斉にアルミンの方へと振り返った。

「またお前かよ!」
「懲りねぇ奴だな!また殴られてぇのか!?」

どうやら顔を覚えていたらしい。
目が合った瞬間から雑言が飛び交い、再び胸ぐらを掴まれた。
⋯⋯
⋯⋯
だが、不良らはそれ以上何をするでもなくすんなりと手を離し、お決まりの覚えてろよ!という捨て台詞を残して去っていく。
ーー何故何も仕掛けてこなかった?
疑問に思いながらも暴行されていた人物に駆け寄る。
大丈夫?と声を掛けると、その人物はゴミ袋の山に埋もれた体をゆっくりと起こし、口端から滲み出る血を手の甲で拭った。
ボサボサの長い髪が邪魔して顔はよく見えないが、男だ。無精髭を生やし、衣服は汚れ、くたびれている。
手を差し伸べると、乱れた髪の隙間から覗くエメラルドグリーンと目が合った。この目には見覚えがある。

「⋯⋯エレン?」
「⋯⋯アルミンか」

何がどうしてこうなったのか。
ボロボロになって倒れているエレンを見て、アルミンは動揺した。
エレンが不良らからアルミンを助けたのはつい最近のことだ。

「どうしたんだよ、エレン。君がこんなにやられるなんて」
「⋯⋯腹が」
「腹?腹をやられたの?」
「腹が減って動けねぇ」
「⋯⋯」

つまり、空腹で力が出ないからやられた、ということか。

「立てる?」
「……ああ」

エレンはアルミンが差し出した手を掴み、よろよろと立ち上がった。

「歩くくらいは出来そう?」
「……ああ」
「良かった。じゃあ、来て。すぐそこだから」
「すぐそこって?」
「僕の家」

「どうぞ」

食パンを適当な厚さに切り、バターを塗ってダイニングのテーブルに置く。
インスタントのスープもおまけに付け、エレンの前に並べると、エレンはものすごい勢いでパンを貪り始めた。
ちゃんとした食事を作っても良かったのだが、とりあえず何でもいいから腹に入れなければ倒れてしまうだろうと判断し、今キッチンにあるもので調理が必要ないものを選んだ。

「アルミン、このスープ最高に美味い」
「ありがとう。僕はお湯を注いだだけだけどね」

しかし見ていて気持ちがいいほどに食いっぷりが良い。まるで大学の友人サシャのようだ。
エレンの向かいに座り、その様子を眺めていると、不意にエレンと目が合った。

「よっぽどお腹が空いてたんだね。いつから食べてなかったの?」

数日前に見かけた時よりも頬が痩けていて顔色も悪い。
食べ物が喉を通らないくらい具合でも悪かったのか?今は食欲は戻っているようだが、病院へ連れて行って医者に診てもらったほうが良いのだろうか。

「⋯⋯」
「エレン?」

黙り込むエレンの顔を覗き込むと、エレンは気まずそうに目を泳がせた。

「最近まで一人暮らししてたんだけど」
「⋯⋯うん」
「バイト先で問題起こしてクビになって」
「⋯⋯」
「稼げねぇから家賃が払えなくて数ヶ月滞納。ついに大家に追い出された」
そんなわけで、食いもん買う金もねぇ。と、今の状況を話すエレンにアルミンは混乱した。

「⋯⋯ちょっと待って。じゃあエレンは今どうやって暮らしてるの?」

親の元へ戻ったのか、親戚のところに世話になっているか。どちらかの答えであればいいと願ったが、エレンの身なりからしてそれは望み薄だ。
そしてその返答は粗方予想がついてしまった。

「それは、あれだ。路上生活」

⋯⋯やっぱりだ。

「それで、弱っている君を見かけた不良たちが好機とばかりに襲い掛かってきたってわけだ」
「元々それほど喧嘩に強いわけじゃねえからな」
「え、そうなの?そうは見えないけど」
「まあ、確かに大抵の奴はこの悪人面を見たら逃げてくか」
「ふっ⋯⋯はは。悪人面って。自覚はあったんだね」
「お前な⋯⋯」

眉を八の字にして此方を見るエレンが更に可笑しくて笑いを堪えていると、エレンの口角が僅かに持ち上がる。
まるで懐かしいものでも見ているような柔らかい目で見つめられ、アルミンは小さく息を呑んだ。
何だ、この奇妙な感覚は。
頭の中に何かの映像がちらついた気がしたが、ほんの一瞬のことでそれが何なのかは分からなかった。

「⋯⋯とりあえずさ、今お風呂沸かすから入りなよ。あと洗面台に髭剃りあるから使って」
「⋯⋯おい」
「あっ。着替えの服がないな。僕のサイズじゃ君には小さいからーー」

そういえばこの前友人が泊まりに来た時に着替えを置いていったんだ。ひとまずそれを借りよう。

「おい、アルミン」
「何だよ、エレン」

バスルームやクローゼットへと忙しなく動いていると、ふいにエレンに呼び止められた。

「家に上げて食いもん恵んで風呂まで貸す。見ず知らずの奴にどうしてそこまでするんだ?」
「どうしてって⋯⋯お礼だよ。僕を助けてくれたお礼。それにもう見ず知らずってわけでもないだろ?」
「じゃあ、何だ?オレとお前は友達か?」
「現段階ではまだ顔見知り、ってところかな」

「⋯⋯」

「ほら。早くサッパリしてきなよ」

エレンの背中を押してバスルームまで誘導すると、何か言いたげではあったが大人しく洗面台の前に立ち、髭を剃り始めた。

サァー、という水音が聞こえてくる。
エレンがシャワーを浴びている音だろうと思ったが、ふと窓の外を見てみると、いつの間にか本格的な大雨になっていた。
やはりエレンを家に上げて正解だった。こんな大雨に打たれ続けたら風邪を引いてしまう。

「⋯⋯」

確かに見ず知らずの奴にどうしてそこまでするかというエレンの疑問は尤もだった。
腹が減って動けないのであればコンビニかどこかでおにぎりかサンドウィッチでも買って渡すだけでも良かったはずだ。
だけど何故かその場に放っておくことが出来なかった。
一瞬でも目を離せばその隙に行方を晦ませそうな危うさ。側についていなければきっとーー

“⋯⋯らはずっと一緒だーーーもうこれ以上遠くへ⋯⋯⋯⋯でよ”

「アルミン?」
「!?⋯⋯ああ、エレン?」

誰かに対して必死に呼びかけてる自分が脳裏をよぎった気がするが、エレンの声にそれは掻き消された。

「風呂ありがとうな。おかげでサッパリした」

濡れ髪をバスタオルで拭き、エレンはアルミンの隣に立つ。

「すげぇ降ってんな」

窓枠に手をつき外を眺めるエレンにこれからどうするの?と問うと、エレンは少しの間を置いて何とかするよと答えた。

「まずはバイト探しだな。滞納してる家賃も払わねぇと」
「ねぇ、エレン。聞いてもいいかな」
「ああ」
「君の両親はどうしてるの?」
「いるよ。国外だけどな」
「国外?」
「⋯⋯オレはパラディ島の”シガンシナ”出身で両親は今でもそこで暮らしてる」

聞き覚えのある島、地名にアルミンの目は大きく見開いた。

「エレンはパラディ島から来たの?偶然だな⋯⋯僕もだよ。生まれも君と同じシガンシナなんだ。幼少の頃に両親がマーレに移住することになってさ。それからはずっと⋯⋯」
「⋯⋯」
「シガンシナ生まれのーーエレン?」
「⋯⋯そうだ。お前はシガンシナ生まれのアルミン・アルレルト。ーー歴史上の英雄と同じ名だな」
「⋯⋯君のフルネームは?」

「⋯⋯エレン・イェーガー」

「⋯⋯」

こんな偶然があるのだろうか。
アルミンの体がカタカタと小刻みに震える。

アルミン・アルレルト。
誰もが知る歴史上の人物と同じ名前が嫌だった。
祖父のことは大好きだったが、どうして自分にこの名を付けたのだろう、ファミリーネームが同じだからといって何も同姓同名にしなくたっていいだろうにと常々思っていた。
英雄と同じ名前なのにお前はいっつもドベだな。と幼少の頃から面白可笑しく揶揄われ続けてきたのだ。名前負けしていることがコンプレックスで仕方がなかった。
しかも、成長するにつれて名前だけでなく顔まで英雄アルミン・アルレルトに似てきてしまったのが奇妙だった。
二十歳になった今では歴史の教科書に載る彼の顔と瓜二つだ。

そして今。アルミンの目の前にいる男は、歴史上最も有名な人物、”大量殺戮犯 エレン・イェーガー”と同じ名だったのだ。